昔の塾や道場ではどのように教育していたかという話を聞いて結構感動した。
昔は、入学、いや入門しても、すぐに教えることはしなかったらしい。
むしろ、教えるのは拒む。
たとえば、柔術の勉強をしようとして入門した者にも、毎日、薪割り、水汲み、掃除や子守りをさせたりする。
教わる側は、なぜ教えてくれないのかと不満を抱くようになる。じれてくる。
しかし、じらせておいてから、やっと少し教える。すべて教えるわけではない。
不満をいだき、覚えたい、勉強したいという意欲を高めておいて、その上で、教え惜しみをしていく。
名人の師匠もその道の奥義をはじめから教えようなどとはしない。
秘術は秘密にして、隠すのである。
秘術は秘す。。。。
弟子は、教えてもらうことは到底望むべくもないから、いかにして、師匠の術を盗みとるか必死になる。
こうして、師匠の教えないものを奪い取ろうと心掛けた人間は、いつのもにか、自分で自ら新しいものを
習得する力を得ていく。
昔の人たちは、受動的になりがち、教えてもらいがちな勉強を、
能動的で、積極的なものにすることにとても長けていたともいえようか。
今では優秀な学校や塾はものごとをつめこもうとする。
そして、数学、算数では、与えられた問題を解かせることに力を注ぐ。
しかし、自分で問題を設定し、なぜ?と問う。
そして、問題自身をも、よりよい問題に進化させていくこと、なぜを進化させていく能力も必要で、
これは、つめこみ教育だけからでは生まれない。
知識は、すでにネットワークで検索すれば、かなりのものが楽に手に入る時代になりつつある。
今後は、自ら学び、問題を設定して、さらに学んでいく力がより求められることになるのは間違いない。
知識の詰め込み教育、問題ありきの解く教育も重要ではあるが、
ある程度以後は、より考える、問題を生み出す能力の育成にも、力を注ぐ必要があろう。
コンピューターがかなりの分野を覆えるような今の時代であるからこそ、教育方法も変えていく必要がある。
特に、ひとりひとりの人間が、自ら能動的に学ぶ、何故を問題に置き換え、新しい問題を設定していく。
そのようなことが、今後の未来を創るには、重要な事項になっていくだろう。
昔から、ひとつの事柄に「何故?」を五回繰り返すと、もう、誰も答えられないというではないか。
人間にわかっていることなど、ほんのちっぽけな事柄に過ぎない。
世の中わからないことだらけである。
だから、既にある問題は、さっさと通り抜け、(リストを眺めるだけでも良いかもしれない)、
自分で、問題を作って、突き詰めていくことも、このちっぽけな人間の知識を広げていくことにわずかながら貢献するように思う。
人は、与えられた知識、与えられた問題を解くだけではなく、
自ら、何故と問い、問題を設定してきたからこそ、この人間の世界を広げてくることができたのだと信じたい。
この世界をさらに広げるには、やはり、自ら何故?と問うてみることが、重要。
これこそが、第一歩なのである。
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