水曜日, 1月 03, 2007

40歳で隠居!

元旦、とある新聞に、「隠居の思想と現実」という題で、浅田次郎氏が、こう書いている。

「昔の侍は十五歳で元服し、二十歳で結婚をして家督を引き継ぎ、おおむね二十年働いた後、四十歳で隠居するのを理想のライフサイクルと考えていたらしい」

人間が短命であったこともあるのであろうが、むしろ社会の要請もしくは道徳で、四十代は老人扱いされていたとのことである。

江戸や諸藩の城下には、四十代からの若隠居が反乱していて、家督を譲れば倅の仕事にも家政にも口出しをせぬのが彼等の美徳であり、そのかわりに孫を教育し若者を啓蟄し、あるいはみずから学問を積み趣味道楽を極めたという。芝居に例えれば、彼等は、陰で支える黒子に転じたのであろうとのこと。


先日、教養番組で、「骨の年齢」について、とある先生が話をされていた。
骨は、二十歳前に、ほぼ成長を完成し、30歳まではもつようにつくられているが、それ以後はあまり考えられていない。すなわち、骨からいえば、30歳以降は、「余り」or「おまけ」の人生のようなもの。

今の世の中は、職業にもよろうが、60歳前後が定年のようである。
身体には色々と不都合を抱えつつも、元気な老人たちは、あれこれと、檄をとばす。

しかし、2007年問題というものも到来し、元気な老人たちが、もしも、一斉に姿を消していく場合、若手はどのようにこれからをいきていこうとするのか。

先日、とある元気な老人の一人とお話をしていたのだが、

後継者は、30代から40代前半、このあたりから選ぶべしとの話がでた。

50代の人に後継しても、もともと、団塊の世代に続く世代であり、従来の延長はできても、改革などできはしないかもしれない。
ついては、さらに、もう一代、二代、若手層を鍛えればよいのではないかとの議論である。
場合によっては、幹部層も、40代にしてしまうというのも一考かもしれない。

さすれば、先人が、子供や孫を育てたのと同様、
老人たちは、30代後半から40代前半を、
50代は、20代後半から30代前半を、
40代は、20代前半を
育成するというのもアイデアかもしれない。

幹部層を40代にしてしまえば、50代、おそくも50代後半は隠居である。

今までの60代を老人といっていたことを、やや若返らせ、50代を隠居世代、老人たちと呼ぶことにする。
そして、上記のように、巧みを、知恵を伝承させていくことを考えれば、なにやら、うまくいくような気もする。

問題は、世代ギャップをのりこえ、世代間で話ができるかどうかである。

常日頃から、同世代や年上との会話とともに、
若い世代、あるいは子供たちとの話をできるように、自らも準備をしておく必要があろう。

20歳前後、年齢の異なる人たちとお話をするということは、ほぼ、宇宙人同士の会話に近いことかもしれない。
お互いに話をする前段としての、共通話題というのも必要なのでありましょうね。

スポーツとか趣味であれば、比較的、話はしやすい。
ただ、もう少し踏み込んだ、話し合いができるかどうか。
悩みを相談できるか、
本音で話ができるかどうか。

中国、韓国、米国と比べて、日本の親子関係は、濃密とはいえない。仮面の関係であるとのレポートもあるようだ。
子供からいえば、余計なお世話、うるさい説教にもなりうる。

若手にとっての、ご隠居は、あくまでも、静かであって欲しいものなのかもしれない。
悩みは深い。

しかし、おそらく、これからの課題山積みの未来に向けては、
若手は、老人たちの知恵を拝借すべきであり、
また、老人は、うるさくない程度に、二周り以上離れた若者に話しかけるべきであろう。

さすれば、老人?たちが、50歳後半で隠居しても、世の中はうまくいきそうな気がする。

そして、隠居は、老人ということでなく、リーダーを若手に譲ったというだけであり、世の中の発展にも寄与している。
してみると、老人という定義はあてはまらないということになりそうである。

老人は、75歳以上と定義すべきとの議論もあるようだ。

50代後半から60歳での隠居は、まだまだ若く、若手リーダーではできないような分野、困難多き分野、
たとえば、
若手への知恵の継承や、
世界の難題解決、人の為・平和につながるが未来課題への対応の自ら真に望む分野のリーダーを務めるということにすれば、
まさしく、シニアリーダーということになる。

隠居万歳である。
留まり休む隠居ではなく、歩き続ける隠居でありたいものだ。

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