木曜日, 2月 15, 2007

ドラッカー:上田氏 ポストモダンへの処方箋?! サマリ

ドラッカーのIT経営論・・・上田惇生氏に聞く 「近代合理主義が通じない問題を解く」
については、先日要約文を掲載したが、再び読み直してみて、特に印象に残った部分をここにメモしておきたい。(今回の本欄では、「モダンが終わった」という点について、上田氏にインタビューした内容。)

--
デカルトの拠り所が何であったかというと、「我思うゆえに我あり」。
ここから近代合理主義というものが生まれた。
物事を因果関係で説明し、量でもって測るというやり方です。モダンの幕開けですね。
このおかげで、科学、それから技術が進んで350年たった。

でも、世の中が分からないという点は全然変わっていない。わずか350年で、モダンのやり方がそれなりに役に立つということが分かり、実際かなり役に立った。
でも、今、我々が直面している数々の問題は、モダンのやり方では依然として分からないし、解けない。このことが痛切に感じられていると思うのです。

別な言い方をすれば、左脳ではなく右脳で見なければならないということ。
すべてのものを部分に分解して組み立て直せばいいものになる、とモダンの世界で言われ、確かにそういうことがあった。
しかし、それだけではない。

全体は部分の和ではない、全体は全体としていなければならないということです。
つまり、命あるものとして見なければならない。環境問題もエネルギー問題も教育問題も全部そう。
分解しても限界があり、トータルとして見なければ理解できないし、解くこともできない。
我々はこの当たり前のことにようやく最近、気が付いたわけですよ。

350年間やってきた、全体は部分の集まりであるとか、物事は因果関係で分かるとか、重要でないものは捨象し、重要なものだけを抽象化して、その間の関係を見ればいいのだ、というやり方だけではダメだとする。
それではどういうやり方があるのだろうか。そういうことを、ドラッカーは教えてくれている。
結局、それが僕の本の仮説というかテーマなんです。

モダンが終わった時代を生き抜くために、ドラッカーはどういうやり方があると教えてくれたのか。僕は、七つあると思って書きました。
たとえば第一は、「見る」こと。全体を命あるものとして見る。
第二は、「分かったものを使う」。
理屈は分からなくても、すでに分かったことを使ってどんどん進めばよい。

こういう具合に僕は七つまであるんじゃないかなと思って書いたけれども、人によってみんな違うと思います。

--
ものの役に立つものとして、ドラッカーが注目したのは、手段としての技術です。
それが最初は技能であった段階には、特定の人にくっついちゃっている技能だったわけですよね。
これでは全然応用が利かない。それが、モダンのおかげで技術になっていったわけだ。

ドラッカーは、科学と技術が結婚して所帯を持った時に主導権を持ったのは技術の方だと言っている。
なぜかというと、モダンのおかげなんですよ。
モダンのおかげでもって「テクノ」という技能に、「ロジ」が付いて、体系化されたテクノロジーになった。
つまり技能の技術化・体系化が行われるようになって、そこへ科学が顔を出して、所帯を持って、その結果、我々はここまで来た。

このあたりのことを考えてみると、ドラッカー自身もモダンの手法を使っているんだということに気が付いたわけです。
典型例が時間管理ですね。ドラッカーの時間管理というのは、時間を細分化して、その中で役に立たないものは捨てて、空いている時間をつくって、それをまとめないさい、とこう言っている。
 それは何かというと、フレデリック・テーラーの「サイエンティフィック・マネジメント」の手法と全く同じなんですよね。
作業・動作を分析して、いらない動作をなくして、合理的に組み立てなおすというのは、まさに全体を部分に分解して、部分を組み立て直すでしょう。

時間の管理なんて、1日の時間は有機的にお互いに関係しているわけですよ。
その有機的な命ある時間といっしょにある1日というものを機械的にぶった切って、これはいる、いらないと判定をして、いらないものを捨てちゃうというのは、まさにモダンの手法そのものです。つまり、ドラッカー自身がモダンの手法を使っている。

プロジェクトマネジメントなどまさに、そういう話なんじゃないかな。
プロジェクトという、本来生き物なので、分解できないんですけど、それをいろいろあの手この手で分解し、進めていく。

だから僕の本で、ポストモダンの作法の第7番目に何をもってきたか。
「モダンを使え」としました。モダンの手法で使えるものは使おうよということです。

ポストモダンのものの考え方として、見るというものをもってきて、分かったことは使う。
「我思うゆえに我あり」とともに、「我見るゆえに我あり」を言わなきゃいけない。
でも、モダンの手法はいるわけですよ。
だから、右脳とともに左脳を使う。
問題は、モダンの手法だけで全部が分かると思っている人が多すぎることです。


--------
以上の抽出、要約をさらに、詰めてまとめて短くしてみると、以下となりましょうか?!
--
すべてのものを部分に分解して組み立て直せばいいものになる、とモダンの世界で言われ、確かにそういうことがあった。しかし、それだけではない。
全体は部分の和ではない、全体は全体としていなければならないということです。
つまり、命あるものとして見なければならない。環境問題もエネルギー問題も教育問題も全部そう。
分解しても限界があり、トータルとして見なければ理解できないし、解くこともできない。
--
ドラッカー自身もモダンの手法を使っている。典型例が時間管理。
--
ポストモダンの作法の第7番目・・・「モダンを使え」としました。
モダンの手法で使えるものは使おうよということです。
--
ポストモダンのものの考え方として、見るというものをもってきて、分かったことは使う。
「我思うゆえに我あり」とともに、「我見るゆえに我あり」を言わなきゃいけない。
でも、モダンの手法はいるわけですよ。だから、右脳とともに左脳を使う。
問題は、モダンの手法だけで全部が分かると思っている人が多すぎることです。
--

モダン
 分解、分析、「我思うゆえに我あり」、左脳
 すべてのものを部分に分解して組み立て直せばいいものになる
 物事を因果関係で説明し、量でもって測るというやり方

しかし、モダンは終わった。その理解は、
ポストモダン
 モダンだけではだめ、「我見るゆえに我あり」、右脳、
 全体は部分の和ではない、全体は全体としていなければならない
 トータルとして見なければ理解できない
 モダンが終わった時代を生き抜くためのやり方論・・・
 「見る」こと。全体を命あるものとして見る。「分かったものを使う」。モダンも使う。

モダンの手法だけで全部が分かると思っている人が多すぎることは問題。
処方箋は、手持ちの一般用語を用いてたどたどしくいうのであれば、
・左脳とともに右脳も使おう。
・木を見たら、森も見よう。
・分析と総合を相互に組み合わせよう。
といったことでしょうか。



世の中、難しい課題、わからないことは、本当に多いので、そのうちに、

モダン、ポストモダンはもとより、最新のツールをさらに組み合わせて用いて、世の中の役立つことを解明していく・・・といった流れになるのでしょうか。

未来を明るくできるよう、小さい頭の中で色々考えていきたいものです。

0 件のコメント: