土曜日, 2月 10, 2007

ドラッカー 上田惇生氏に聞く「近代合理主義が通じない問題を解く」サマリー

上田惇生氏に聞く「近代合理主義が通じない問題を解く」

以下Tyees要約版で掲示する

全文、本文などは以下のURL参照
http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/biz/shin/shin0124/shin_64_1.shtml
http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/biz/index/ind_shin.shtml
「分からないことばかり」とドラッカーは言った
「世の中が分からないという点は全然変わっていない。
モダン(近代と近代合理主義)のやり方がそれなりに役に立つということが分かり、実際かり役に立った。でもドラッカーは1957年に出版した『変貌する産業社会』の序文で、いつの間にかモダンが終わったと書いている。
今、我々が直面している諸問題はモダンのやり方だけでは解けない。
結局、分からないことばかり。このことが痛切に感じられている」

30年以上ドラッカーと付き合い、ドラッカーの著書の大半を邦訳した上田惇生氏にとって一番引っ掛かる言葉とテーマは「モダンが終わった」であるという。

近代合理主義の精華の一つはコンピュータである。しかしコンピュータを適用する企業や人間社会は分からないことだらけであり、時折コンピュータを巡る不条理劇が演じられる。
特に経営者がコンピュータ専門家に一任した時、不条理の度合いは増す。
(聞き手は、谷島宣之=経営とITサイト編集長)

-----------------------------------------------------------
ドラッカーのIT経営論
上田惇生氏に聞く 「近代合理主義が通じない問題を解く」

 社会生態学者、ピーター・ドラッカー氏のほぼ著作は、同一人物によって邦訳されている。
上田氏は翻訳者にとどまらず、ドラッカー氏の編集者であり、情報収集の助手でもあった。
こうした関係を続けた結果、ドラッカー氏は上田氏について、著書の前書きで上田氏のことを「私の分身」とまで呼んでいる。

その上田氏がドラッカーに関する本を出版した。
題名の通り、ドラッカーに関する入門書として準備された。
巻頭で上田氏は「本書のテーマは、あえていうならば、このモダンの世界観からポストモダンの世界観への重心の移行であり、そこにおけるポストモダンの旗手としてのドラッカーの意義である」と述べる。
モダンとは、デカルトが創始した近代合理主義のことであり、ポストモダンとは近代合理主義を超えるものを指す。

ドラッカーは、1957年に出版した『変貌する産業社会』の序文で、「いつの間にかモダン(近代)が終わった」と書いています。
50年前にこの指摘をたわけです。
ドラッカーの本を何度も訳してきて、僕にとって一番引っ掛かる言葉であり、テーマがそこでした。
そのため、最初はドラッカーの入門書を書くつもりだったけれど、書き上げてみると、ポストモダンの時代をどう生き抜くかという、上田なりのドラッカー論、つまり「私のドラッカー」になってしまいました。
この本を書くことによって、長年、気になっていたことが鮮明になったという感じがします。
何なのかというと、世の中というのは分からないものだらけ、ということです。
序文でドラッカーは、「17世紀の半ば以降350年にわたって、西洋はモダンと呼ばれる時代を生きてきた」と言っています。
分からないものを前にして呆然としていたところへ、原因と結果を推理の力で、あるいは抽象化することによって、かなりのものは分かるはずだ、ということを考えた学者がいたわけですよ。
拠り所が何であったかというと、「我思うゆえに我あり」。
ら近代合理主義というものが生まれた。
350年で、モダンのやり方がそれなりに役に立つということが分かり、実際かなり役に立った。
我々が面している数々の問題は、モダンのやり方では依然として分からないし、解けない。
すべてのものを部分に分解して組み立て直せばいいものになる、とモダンの世界で言われ、確かにそういうことがあった。
部分の和ではない、全体は全体としていなければならないということです。
我々はこの当たり前のことにようやく最近、気が付いたわけですよ。
ボクシングの試合の判定に疑惑があるという話になって、テレビでわあわあやっていたでしょう。
ボクシングにおける判定は、12ラウンドに分けて、それぞれの部分について優劣を勝手に付ける。
試合全体の印象とはかなり違った結果が出てくることがある。
相手をダウンさせても10点満点のうち2点付くだけなんですね。
細分化して評価するという答えは実のところ、ないか。
こういう根本的な疑問がわけです。
部分の和ではないのです。
350年間やってきた、全体は部分の集まりであるとか、物事は因果関係で分かるとか、重要でないものは捨象し、重要なものだけを抽象化して、関係を見ればいいのだ、というやり方だけではダメだとする。
そういうことを、ドラッカーは教えてくれている。それが僕の本の仮説というかテーマなんです。
時代を生き抜くために、ドラッカーはどういうやり方がと教えてくれたのか。
自分自身の中ですら違うんだから。
ドラッカーを読む時は、本に線を引っぱったり、気が付いたことをメモしておくことをお薦めします。
成長記録にもなるんだな。
自分が正しいわけですよ。のだということをドラッカーは言ってくれる。
「私のために書いてくれた!」と、みんな元気が出ちゃう。
これがドラッカーの最大の魅力と言ってもいいでしょう。ドラッカーが凄いところは、決めのフレーズ。
ここが肝心と思うのです。
我々は、我々が見ているものについて呂律が回らないわけ。
我々には言葉がない。
あるかというと、人間なんですよ。
ドラッカーがしばしば言及しているコミュニティーは目的かな。
人間は社会的存在としてコミュニティーは必要とするし、コミュニティー自体に値打ちがある。
コミュニティーにも問題がある。
人間の役に立たない知識というものには意味がないわけ。
極論すれば、ごたごたやっていたソクラテスが何だかんだやっていたような知識はほとんど意味がない。
意味ある知識が急に出てきた。
世の中がらがらと変わってきた。役に立たないことを言う学者たちに対し、ドラッカーはかなり批判的です。
患者がいて、その足を切ったりなんかしているのは、先生ではなく床屋であると。
役に立つものとして、ドラッカーが注目したのは、手段としての技術です。
それが最初は技能であった段階には、特定の人にくっついちゃっている技能だったわけですよね。

 ドラッカーは、科学と技術が結婚して所帯を持った時に主導権を持ったのは技術の方だと言っている。
モダンのおかげでもって「テクノ」という技能に、「ロジ」が付いて、体系化されたテクノロジーになった。
技能の技術化・体系化が行われるようになって、そこへ科学が顔を出して、所帯を持って、その結果、我々はここまで来た。
このあたりのことを考えてみると、ドラッカー自身もモダンの手法を使っているんだという気が付いたわけです。
ドラッカーの時間管理というのは、時間を細分化して、その中で役に立たないものは捨てて、空いている時間をつくって、それをまとめないさい、言っている。
作業・動作を分析して、いらない動作をなくして、合理的に組み立てなおすと全体を部分に分解して、部分を組み立て直すでしょう。

 時間の管理なんて、1日の時間は有機的にお互いに関係しているわけですよ。その有機的な命ある時間といっしょにある1日というものを機械的にぶった切って、これはいる、いらないと判定をして、いらないものを捨てちゃうというのは、まさにモダンの手法そのものです。つまり、ドラッカー自身がモダンの手法を使っている。

 プロジェクトマネジメントなどまさに、そういう話なんじゃないかな。プロジェクトという、本来生き物なので、分解できないんですけど、それをいろいろあの手この手で分解し、進めていく。

 だから僕の本で、ポストモダンの作法の第7番目に何をもってきたか。「モダンを使え」としました。モダンの手法で使えるものは使おうよということです。
ポストモダンのものの考え方として、見るというものをもってきて、分かったことは使う。「我思うゆえに我あり」とともに、「我見るゆえに我あり」を言わなきゃいけない。でも、モダンの手法はいるわけですよ。
だから、右脳とともに左脳を使う。問題は、モダンの手法だけで全部が分かると思っている人が多すぎることです。

 科学あるいは技術に関わっている、いわゆる理科系の人たちに解明してほしいこととして、科学と技術の距離をどう見るか、というテーマがあります。科学と技術が結婚したわけですが、両者は本来遠いところにいる。世界の一番こっちに技術、工学(エンジニアリング)があるとすると、一番遠くに純粋物理があるわけ。その間に他の学問、社会学だとか民俗学だとか宗教学だとか、そういうものがある。科学と技術は本来そのくらい違うんだと思う。

 片方は現場主義なわけですよ。理屈なんて構わない、何でも作っちゃうという人がいる。一方には、天空を眺めてそこから数式を導くというか純粋さを求めていくというのがある。その両者はどういう構造でつながっているのか。実際に技術系の人たちはどっちの頭で仕事をしているのか。非常に不思議に思っています。

0 件のコメント: